
本来性と現実
秩序と無秩序、未秩序の間に生きる人間
「本来性」が単なる「形骸化した義務」として機能不全のまま振りかざされる時、それは人間を救うどころか、その固さと重みで攻撃する鈍器となる。そして、空言は間尺に合わない「べき論」となる。
本来性と現実──
秩序と無秩序、未秩序の間に生きる人間
隣人のことすらろくに知らず、およそあらゆるコストに見合わない会社や学校、瑣末な一事で炎上する不安定な可燃性媒体にすぎないSNSのフォロワー等、今や人間社会の基底であるはずの「人間の本来性(伝統的価値や道徳)」もクソもない。
もとより「本来性」には無理がある。況してや疲れ、頽れ、鬱の瀬戸際で生きる現代人にたいし、「本来性」が単なる「形骸化した義務」として機能不全のまま振りかざされる時、それは人間を救うどころか、その固さと重みで攻撃する鈍器となる。
「本来性」の眷属としての「愛」だの「絆」だのが甘辞の皮をかぶって前にでてくるとき、それはC4(Composition C-4)爆薬も甘い味がすることを思い出す時だ。「愛」や「絆」、それらはそこはかとなく析出されるものであって、叫ぶものでも掲げるものでも、況してせまるものでもない。やすやすと最初に出てくるというのは甚だ胡散臭い、贋物としてよい、否、危険物である。
私は隣の住人をとてもじゃないが愛せない。できることなら愛したほうがよいとも思わない。何でも彼でも「本来、人は愛するべきだ」などと、私にとっては非現実的な世迷言だ。「感謝」も同じ、「感謝せよ」と言われてするものではない。それは抑えがたく湧出するものだ。愛も感謝も、人からどうこう言われる筋合のない、本然の性である。それらが機能していれば、あえて言葉にする必要のない、人生で一度も語る必要のないものである。機能していないからこそ、標榜される。
人は本来こうあるべきだ──殊勝な響きも、物が、事が、社会が徹底的に本来的でないなかで、本来性の線を踏み外すなと言われても、それはできぬ相談だ。体中をマイクロプラスチックが駆け巡り、添加物という名の毒を舐め喰らい、ソーラーパネルが木石より重要な状況で、自然物・人間としての清純を保つことのほうが、不自然であるし、それは破綻する。
なぜ破綻するのか。それは理に適っていないからだ。その理とは、秩序と無秩序、未秩序の間に生きる人間という実存の理だ(下図)。
複雑で、往々にしてグロテスクな人間という現象は、常に、秩序化された域(城壁に囲まれた城)、無秩序の域(欲望の荒野)、そして秩序化がもとめられるも未秩序の域(機能しない未完の城壁)に展開している。およそ人間の現象はこのようなカオスもようだ。人間運動の表面波(surface wave)はほぼ常に無秩序の域への進出をめざす。「開拓精神」や「進取の気象」といった美辞はここに属する。つまり人間は実存的不可避に秩序にとどまっておれず、無秩序へと進出し、そしてまだ見ぬ未秩序をろくに機能もしない理想や理念として掲げるものなのだ。そして「本来こうあるべきだ」という空言は現実において常に、必ずや、間尺に合わない「べき論」となるのである。
疑似秩序化の術式
1精神的スタイル: 「内的なミクロ・コスモス」の再構築
マクロ(外部世界)がカオスに支配されているならば、外部に秩序を求めることは単に絶望を招く。よって、「本来性」を自己の内部に再設計する必要がある。
認知的デカップリング(分離):
社会の頽廃や価値の下落を「外気」として客観視し、自己の精神の平穏と切り離す能力。ストア派の哲学者エピクテトスが説いた「自分の制御下にあるものと、そうでないものを峻別する」知性を、より冷徹に、現代のノイズにたいして適用する。
「私的規律」の神聖化:
秩序としての宗教や道徳が社会から消失していくとき、個人が自らに課す「ルーティン」や「美学」が、かつての宗教や道徳が担っていた秩序の代わりとなる。誰に見せるためでもない、自分だけの高潔な儀式(例えば、毎朝の読書や特定の思索の時間)を「本来性」の砦とするスタイル。
2知的スタイル: 「ネガティブ・ケイパビリティ」の恒常化
カオスの時代、もとい人生は「答え」が出ない状態が長く続く。場合によっては一生をその状態で過ごすことになろう。ここで短絡的に秩序(極端な思想や流行の論等)に飛びつくのは、精神の下落を招くだけだ。
不確実性との共生:
詩人キーツが提唱した「事実や理由をせっかちに追い求めず、不確実さや不思議さ、疑いの中にいられる能力(ネガティブ・ケイパビリティ)」を、単なる知恵ではなく「生存戦略」として採用する。つまり、「不安定こそ人生のデフォルト状態」と腹を括る。
歴史的大局観の保持:
現代もまた、歴史的反復運動の一部だ。14世紀の黒死病流行後や、30年戦争期の欧州もまた、同様のカオスだった。現在の混迷を「歴史的な一呼吸」として俯瞰する視座は、パトス(共感・感情)の暴走を抑え、ロゴスを本来の位置へと引き戻す。いつの時代に生まれ、生きたところで、人間なんざこんなもの、という歴史的諦観を土台に置く。
3物的・環境的スタイル: 「ミニマリズムと冗長性」のパラドックス
物理的な基盤においては、カオス(不確実性)に耐えうる「しなやかな剛性」が求められる。
情報のデトックスと質の追求:
生きづらさの認識は、低質な情報流によって加速される。物理的な所有物のみならず、摂取する情報を評価し、質が高く、時間軸の長い(古典など)ものにコストを投下する。
物理的レジリエンスの確保:
物的な面では、依存先を分散させる「冗長性」が重要。特定のシステムやインフラが機能不全に陥るカオスの局面でも、個人の生存と尊厳を維持できる最低限の自立手段(分散型エネルギー、アナログな技術等)を保持しておく。
「どうでもいい」というバランスポイント
武士道における「常住死身(じょうじゅうしにみ)」、あるいはストア派の「アパテイア(情動に動かされない状態)」は、まさにカオスの奔流に呑み込まれないための「精神の重石」として機能する。
まずは「人生100年時代」に象徴されるような、みたいな惹句をことごとく唾棄することだ。私の身辺、また一次情報によれば、100年生きた人間はごくわずかしかいない。健康は加齢とともに加速度的に失われるし、金融商品は寡頭階級の風の吹き回しひとつでぐらつき、倒れる。人間関係は状況次第でいともあっけなく流動、流失し、モノも製造元の出自怪しい、信頼性の蓄積もへったくれもないクオリティ、多くが間に合わせかサブスク★1になってゆく。
捨鉢な「どうでもいい」ではなく、実存における妥当性としてのどうでもいいは正しいバランスポイントといえる。
不確実性における「動的平衡」の成分表
| 死生観の常識化 | 「最悪(死や喪失)」を常識的計算に組み込むことで、不確実性の振幅を無効化する。「毎日40%ぐらいは最悪になる確率を背負って生きている」と認め諦め納得する。 |
| 審美的隠遁 | 社会的価値の下落から距離を置き、独自の「美」を基準に時を刻む。 |
| 論理的諦念 | 制御不能な外部要因にたいし、理性的エネルギーを浪費しないための防壁。 |
| 身体的規律 | 神経的疲労を和らげるため、精神を「型」という物理的リズムに預ける。 |
最悪の事態が起こる確率が常に40%あるのなら、今日という一日を無事に過ごせただけで感謝の念が湧出し、黄色いTシャツを着なくとも愛を感じられること請け合いだ。
社会的認知症といっても過言ではない、往々にして多数派というかたちをとる群衆(白痴の集団)にたいしては、じゅうぶんな距離をおき(これこそが正しいソーシャルディスタンス)、独自の「美」を基準に「醜」も見定める。
個人の制御不能な外部要因にたいしては、『意識圏』で説明した術式が有効だろう。
そしてなにより人生は心身のバランスがだいじだ。自分なりの暮らしの「型」を洗練し、小文化にまで高め、文化人として余生を送れたならば、朝に道を聞かば夕に死すとも可なり
、胃ろうのカテーテルに繋がれた人生100年時代のラストシーンより、トゥルーエンディング(真の結末)として腑に落とすことができるだろう。
ヨーロッパ大陸にハチが3匹
という比喩は、イギリスの天文学者ジェームズ・ジーンズがいった宇宙空間における星の割合だ。 世界の基本は果てしない闇である。だからこそ、釈尊のその言葉どおり「自灯明」、他人に依存せず、自らの意志と真理を道しるべとし、拠り所とせよ、ということだ。
★1 サブスクリプション(サブスク)――月額や年額などの定額料金を支払うことで、一定期間商品やサービスを利用できるビジネスモデル。製品を購入・所有するのではなく「利用権」を借りる形式。











































